不破関跡
ふわのせきあと
史跡名勝天然記念物
古代の日本三関のひとつ
「不破関資料館」のすぐそば、中山道を挟んだ場所に「不破関跡」はあります。壬申の乱の翌年、天武天皇はこの場所に不破関を設置し、天下の変乱に備えるために通行人たちを取り締まりました。「不破関」は、越前の「愛発関」、伊勢の「鈴鹿関」と並んで日本三関のひとつと呼ばれています。中央には東山道(のちの中山道)が通り、通行人は目的地や携帯品などを書いた証明書を見せて通らなければなりませんでした。関所は、延暦8年に世の中が静まり、その必要性がなくなったため取り壊されたそうです。この不破関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったともいわれています。
中世、承久の乱においては、後鳥羽上皇側が藤原秀澄を固関使に任命し、不破関を守らせましたが、あっけなく退却しています。一方、鎌倉方は野上宿で軍議を開き、京へと進軍しています。現在、野上宿周辺には近世中山道の松並木が残っています。
歌にも詠まれた「不破関」
不破関守の館跡でもあるこの場所は、今は関守の末裔(まつえい)である三輪家が所有する庭園「関月亭」がその一部として公開されています。「不破関」は平安時代の有名な歌枕でしたが、その頃には関所としての機能は既に失われ、関守は施設の維持管理を行っていたそうです。実際、庭園には古い石碑や歌碑、句碑などが建っており、この中に松尾芭蕉の句である「秋風や 藪も畠も 不破の関」もあります。
文化財情報
東山道の美濃不破関は、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱後に設けられたとされています。「不破関跡」は町・県史跡に指定されています。
スポット詳細
住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字松尾149-1 |
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アクセス | 不破関資料館より南に徒歩3分 |
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