細川忠興 陣跡
ほそかわただおき じんあと一流の文化人でもある気性の荒い武将
忠興は父である幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、利休七哲の一人にも名を連ねています。徳川家康が会津征伐のため大坂を留守にし、三成が妻子らを人質に取ろうとした際には、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶ちました。さらに父が守る田辺城は西軍によって包囲されてしまい、三成への増悪の念は深まったと言われています。戦いの当日は約5千の兵を率い、岡山烽火場の麓、相川の南付近に布陣し、黒田長政・竹中重門隊とともに、笹尾山の石田隊を攻め、壊滅させました。
甲冑の考案も手がける!?
忠興は合戦当日、山尾鳥の兜「越中頭形兜」を被っていたとされ、その姿は関ケ原合戦図屏風の1扇にも描かれています。甲冑の考案も手がけた多芸多才な武将でもあったのです。
スポット詳細
住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原811−104 |
---|---|
電話番号 | - |
営業時間 | - |
定休日 | - |
料金 | - |
駐車場 | - |
アクセス | JR関ヶ原駅から北へ徒歩5分 国道21号関ケ原バイパス陣場野交差点から南へ車で1分 |
関連リンク | - |