日本武尊〜近代史まで、様々な時代の文化が交錯した重要なエリア
関ケ原の北部に位置する玉地区は、日本書紀の中に地名の元となった「玉倉部邑(たまくらべむら)」との記述が残る、歴史的観点から見ても非常に興味深いエリアです。2000年以上前に日本武尊(やまとたけるのみこと)の命を救ったと言われている「玉倉部の清水」や、休憩の際に腰掛けられたとされる「日本武尊の腰掛台」も残されています。そして、672年に天智天皇の後継を巡って起きた「壬申の乱」の舞台も、玉地区の辺りだったと考えられています。
様々な戦いの要塞となった「玉の城山」
進行を防ぐ堀や溝が残る城跡
「エコミュージアム関ケ原」の後方に見える小高い山が、南北朝時代、清和源氏の流れをくむ佐竹義春が足利尊氏に追われた際に、砦を築いた城跡が残る「玉の城山」です。その後は「美濃明細記(みのめいさいき)」に「不破郡山中村北の山城主知らず」との記述があり詳細は分かっていませんが、関ケ原合戦において石田三成の陣城として改修され、守備において重要な場所でした。城山に登ると、山頂付近から笹尾山や烽火場などが見渡せ、守りの要と言われたことも頷けます。山頂の東屋からさらに奥へ進むと、堀切や竪堀など、敵の攻撃を阻む溝や堀が残っていますが、安全の面においても「せきがはら史跡ガイド」による案内のもと行かれることをおすすめします。
戦国時代には浜六兵衛や杉山内蔵助らも一時期在城していたと伝わっています。近江と美濃の重要拠点として、平時にも有事にもその時々において武将らは、この山で守備を固めたのではと考えられます。
この山城模型は、その様子を想像して作成されたものになります。
関ケ原町歴史民俗学習館
〒503-1501岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28
TEL&FAX.0584-43-2665
この山城模型は、その様子を想像して作成されたものになります。
関ケ原町歴史民俗学習館
〒503-1501岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28
TEL&FAX.0584-43-2665
戦争を今に伝える重要な遺構
玉地区において重要な史跡に、大正3年に開設され、昭和20年の終戦まで約30年間使用された「旧陸軍火薬庫跡」があります。建設には、地元玉地区の住民と、一部関ケ原地区の住民が携わりました。3ヶ所残る立哨台のうちのひとつ「エコミュージアム関ケ原」の前には、火薬庫への入り口である御門も残っており、立哨台から不審者が入り込まないように見張っていたことがよくわかります。5つ建てられた洞窟式火薬庫はその全てが現存しており、第5のみ見学も可能。湿度や温度変化から火薬を守るため、魔法瓶のように二重構造になっています。中に入ると少しひんやりと感じるのは、そのためかもしれません。「玉の城山」にも軍事境界線の跡や、兵士が隠れるための蛸壺壕、砲台跡が残っています。兵士たちは山頂までの約6kmの山道を、2時間交代で登り、一昼夜見張っていたと言います。
これが関ケ原大火薬庫だ!!
周囲6km、面積約270ヘクタール、火薬量320トン(各棟に約80トン)。地上清涼火薬庫28、乾燥火薬庫1、半洞窟式火薬庫15、洞窟式火薬庫5、というデータから見ても東洋最大規模。テニスコートや伝書鳩小屋、そしてなんと喫煙所まで設けられていたとは驚きです。地図上には立哨台が7ヶ所ありますが、現存するのは3ヶ所のみ。
洞窟式火薬庫を探る!!
小山を堀り、内部にコンクリートを流し、 上部は山土で覆った後、植林し、山林のようにカモフラージュされた。
火薬庫内は湿度や温度変化から火薬を守る為、魔法瓶のように二重構造になっている。
火薬庫内は湿度や温度変化から火薬を守る為、魔法瓶のように二重構造になっている。
現在残るその他の火薬庫
関ケ原では火薬庫周辺をスケート場などとして利用しており、火薬庫をそのまま靴置場などに使用していたようです。現在、施設は閉鎖されており立ち入り禁止区域となっています。
年に数回、立ち入り禁止区域の見学ツアーを開催しています。興味のある方は是非ご参加を!
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