美濃不破関
律令制下の重要な関所「三関」のひとつ「不破関」が担っていた役割とは…。
壬申の乱で勝利をおさめた大海人皇子が天武天皇となり、不破道に関所を設置。西国と東国の要衝である不破を抑え、戦況を有利に進めることができたことから、不破道の重要性、危険性を感じ関を置いたといわれています。東山道の不破関(ふわのせき)は、東海道の伊勢鈴鹿関(すずかのせき)、北陸道の越前愛発関(あらちのせき)とともに大宝令(701年制定)に定められた「三関」のひとつでした。不破関には美濃国府に勤務する関司(城主)が兵士とともに常駐し国家の非常事態に備える一方、通行する人々の検査をする警察的機能も果たしていました。789年、三関は突如として廃止。その維持費に大きな負担がかかっており、停廃せざるを得なかったといわれています。その後、平安時代には天皇の崩御や重大事件の際には、固関使が派遣されました。また、鎌倉時代には東山道を通行する人から、関銭を徴収するようになりました。不破関の規模は不明ですが、中世の陶器、土師質土器や中国銭などが発掘調査で見つかっており、相当大きな規模と施設を持っていたと想像できます。
不破関資料館
岐阜県不破郡関ケ原町松尾21−1
開館時間:9:00〜16:30(11〜3月は〜16:00)
入館料:大人100円/小人50円(20名以上/大人70円/小人30円)
休館日:月曜・祝翌日・12/29〜1/3
お問い合わせ:0584-43-2611
開館時間:9:00〜16:30(11〜3月は〜16:00)
入館料:大人100円/小人50円(20名以上/大人70円/小人30円)
休館日:月曜・祝翌日・12/29〜1/3
お問い合わせ:0584-43-2611
昭和49年〜52年にかけて実施した発掘調査の出土品を中心に、土器類や丸瓦、和同開珎などを展示。壬申の乱について解説したビデオの視聴コーナーや不破関を復元したジオラマもあり、ここで学習してから関連史跡を巡ると、より壬申の乱や不破関を知ることができます。
不破関を今に伝える、重要な史跡
壬申の乱
672年、天智天皇の後継を巡って起きた“天下分け目の戦い”が壬申の乱です。当時の兄弟継承という慣習を無視し、近江朝廷の政権を握ったのは天智天皇の息子である大友皇子。これに対し天智天皇の実の弟・大海人皇子が反乱を起こしたといわれています。まず大海人皇子は村国男依らを美濃へ遣わし交通の要所である不破道を抑え東国を掌握。野上行宮へと進んだ皇子は軍を指揮し、関の藤川を挟んで大友軍と大海人軍が対立。7月1日には玉倉部邑で壮絶な戦いが繰り広げられました。7月22日に大津の瀬田橋の戦いで最終決戦が行われ、大海人軍が勝利。翌日、大友皇子は自害し、三本杉の下に眠っているといわれています。
なぜ、壬申の乱は起きたのか?皇位継承をめぐる、古代天皇家戦乱の謎に迫る!!
壬申の乱に関する記述は「日本書紀」に残るのみで、この戦の真相は闇につつまれています。壬申の乱にまつわる人物の関係性も非常に複雑で、下記の人物相関図を参考にしながら古の時代に想いを馳せると、また違った見え方があるかもしれません。
「壬申の乱」人物相関図 大海人軍 vs大友軍
関ケ原に残る「壬申の乱」の史跡をたどる
日本書紀に記された関ケ原の歴史
壬申の乱は日本書紀巻第二十八(壬申紀)の解釈によるもので、不破関跡周辺を「和蹔(わざみ)」と呼んでいたことや、野上、不破道、玉倉部邑の記述も日本書紀に残されています。歴史的観点からみても、関ケ原が重要な場所であることが見て取れます。
玉倉部邑(たまくらべのむら)への道しるべ
壬申の乱の舞台となった玉倉部邑は、現在の玉地区の辺りだと考えられています。まず黒血川沿いに東海自然歩道を上っていくと、川幅が狭くなり源流へと近づきます。そして玉倉部の清水、玉倉部大橋へと、乱の戦況を想像しながら歩いてみてください。
壬申の乱 人物相関図~序章~
中大兄皇子の人物像とは?
壬申の乱を引き起こした原因ともいえる人物、中大兄皇子(天智天皇)。
大化の改新を学ぶ際、政治の改革者のように扱われているが、詳しく時代をみていくと恐ろしい人物像が浮かび上がってきた。
大海人皇子がなぜ吉野に逃げたのか。壬申の乱が起こるまでの複雑な人間模様が、ここに渦巻いているのである。
とはいっても、皇位継承順が長子優先となる前の話。邪魔者=暗殺が当たり前な時代だったのかもしれない。
大化の改新を学ぶ際、政治の改革者のように扱われているが、詳しく時代をみていくと恐ろしい人物像が浮かび上がってきた。
大海人皇子がなぜ吉野に逃げたのか。壬申の乱が起こるまでの複雑な人間模様が、ここに渦巻いているのである。
とはいっても、皇位継承順が長子優先となる前の話。邪魔者=暗殺が当たり前な時代だったのかもしれない。
壬申の乱 人物相関図 ~終章~
持統天皇の野望?と万葉の恋物語
天武天皇は中国に習い律令国家の成立を推し進める。兄弟継承から長子継承へと変わる、皇位継承権の変換期でもあった。同じく律令国家を目指していた天智天皇も、いち早く長子継承へと考え方をシフトしていた可能性もある。またこの頃の恋歌や挽歌を集めた「万葉集」からは、母は違えど同じ父の元に生まれながらも恋焦がれる、禁断の愛が浮かび上がる!?やはりこれも、この時代は当たり前なのか?